日本茶の店 清水茶寮からのお便り

店主の徒然日記、ハーブ園から、森林から便りが届きます・・・

山からのたより  その25  2017年夏の巻

山からのたより  その25  2017年夏の巻

出陣学徒「さん」の消息を尋ねて

                                      池谷キワ子

今回は山から離れた話題です。最近とてもこころを動かされた出来事がありましたので記してみます。
先の大戦から70年余という長い時間が経ち、体験した人も少なくなりました。
でも何十万人、何百万人の若者が戦争で将来を絶たれてしまった、今後決してあってはならない、
伝え残したいことです。


60年前の高校時代の恩師「兵頭信彦先生」は小金井雑学大学で西洋史の連続講座を
昨年まで20年近く続け、その歯切れのよさ、わかりやすさに好評をはくしてきました。
私たちクラスメート数人は毎回出席して、昔と寸分変わらないお話しぶりを懐かしみ、
終了後先生を囲んでミニクラス会を開いてきました。

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(写真・小金井雑学大学・2015年)

3年前その講座に、小林宏夫妻という方が訪ねていらっしゃいました。

『戦死した兄・小林蕃(こばやし しげる)は兵頭信彦先生宅に下宿していて、
一橋大学(当時は東京商大)から学徒出陣しました。
出陣から70年を機に、出陣学徒の遺品を展示することになり、故郷に兄の遺品を探しにいったのですが、
戦災でほとんどが焼失してしまっていました。ただ一つ、一年先に学徒出陣していた兵頭先生が、
軍隊から兄に送ったハガキが出てきたのです。
なんとか兄の足跡をたどりたいと、ネットでこの講座を探し当ててやってきました』とお話しになりました。

その後小林夫妻は、兵頭先生の戦争体験記「カーキ色の青春」(これは未刊の記録です)を読み、
年2回の小金井雑学大学講座に通ってきていました。
昨年の16年11月、「アメリカの発展とイギリスの繁栄」という小金井雑学大学講座の折、
先生は自ら学徒動員された時のことを余談として熱心に語ってくれました。

『同じ町内(国分寺町平兵衛新田、現在の国分寺市光町)に住む3人の学生が同期の出征兵士となりました。
中のひとりが一橋大生で潮田脩君といい、南方の戦地に向かったがあえなく戦死してしまいました。
戦争が終わって潮田君の家にお悔やみに行ったのでしたが、母上のお嘆きは深く、
いたたまれないほどで、声のかけようがなかったのでした。
一方自分は、この歳まで生き残った。いったいどういうことなんでしょうか。
戦争が終わったらそれぞれの大学にかならず帰ってこようと言い合ってもいたのでしたが』

先生はよく戦争体験のことを講義のなかに織り込んだのでした。

「カーキ色の青春」は私たちクラスメートも回覧しあい、ほとんどが記憶のなかから書き
起こしたというその内容は、次代への伝言であり、戦争の貴重な資料であると感嘆したものです。
その冒頭の部分に潮田君のことがでてきます。
少し長いですがご家族の了解を得ましたので引用いたします。

「カーキ色の青春」(兵頭信彦著)より抜粋

昭和18年11月30日、秋晴れの日であった。
午前10時、町の青年団員数名が、団旗を先頭に押し立てて門前に整列、
「兵頭信彦君、入営万歳!」を三唱して出迎えてくれた。東京帝国大学制帽を被り、
黒の学生服に、祈武運長久兵頭信彦君、と日章旗に大書きされた(カッコ内は略)を胸にかけ、
青年団員に先導され、日の丸の小旗を持った町内の人々を後に引きずりながら、間もなく稲荷神社境内に到着した。
いわゆる“学徒出陣”として当地区から入営するのは3名である。
私の他に潮田君(東京商科大学2年)と越前谷君(日本大学2年)で、すでに神社境内に到着して私を待っていた。
3名揃ったところで、町内会長の司会のもとに、神前での武運長久の祈願祭が執行された。
明日からの不安な軍隊生活を思うといたたまれない気持ちであったが、それはおくびにも出さず、
日本男子の本懐といわんばかりの態度を取り続けなければならぬ自分にある種の滑稽さも感じていた。
“まあ、なるようになれ”という気持ちであった。
~中略~
一方、潮田君は船舶兵として広島の部隊に入隊することになり、母親とともに直ちに指定地に向かったが、
現地で支給された二等兵の軍服に着替えて、母親に手を振って別れたのが最後であったという。
~以下略


兵頭先生は昨年11月の講義のあと体調を崩して、17年1月に93歳でお亡くなりになってしまい、
この講座が最後となりました。出席していた小林宏夫妻は、潮田さんが、お兄様の小林蕃さんと同じ
一橋大学の出陣学徒生と聞き、碑の名簿にも載ってなかったのをつきとめました。
「たぶんお母様はお嘆きのあまり大学に報告なされなかったのでしょう」と小林宏夫人の梨花さんはおっしゃり、
潮田さんについて自治体の戦時下の記録や名簿などを調べてまわりました。
問い合わせ先の一橋大学同窓会では、潮田さんのクラス写真を見つけ出し、消息も探してもらったのですが、
70年前のことゆえ、わずかしか判明しません。
また「いしぶみの会」(一橋大学の学徒慰霊碑を守り、戦没学友の歴史を継承する会)の代表の
竹内雄介氏がさらにたくさんの資料にあたって調査し、それを一枚の報告書にまとめてくれました。

その報告によると、広島の宇品港から西丸という船で戦地に向かった潮田さんは、同大の学徒12名とともに
セブ島に配属され、その後数名は幹部候補生として国内に戻っているのですが、潮田さんは船内に流行った
パラチフスにかかったらしく足止めされた模様でした。
彼が戦死したとされる19年4月19日は米軍機の猛烈な砲爆撃の中を部隊は転進中であったといいます。
400名の第5中隊では、生存者は100名あまりだけでした。
大学時代は村松ゼミ所属、兵頭先生と同じ町内の平兵衛新田の家から通学。
演劇映画研究班の幹事でもあった、以上は戦友会の名簿からわかったことです。

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この写真は潮田さんの唯一の写真です。
一橋大学(東京商大)予科3年6組の集合写真の一部で、左手一番後ろの眼鏡を掛けた長身の学生が
潮田脩さんです。

17年5月20日、一橋大学佐野書院にある「戦没学友の碑」での追悼会に、小林夫妻に誘われて筆者は
行ってきました。
碑は2001年の建立で、818柱の同大戦没者の名が刻まれ、今年新しく刻銘されたのは、
「潮田脩さん」おひとりでした。いしぶみ会では年2回の追悼をずっと重ねてきています。

当日は碑の前での参拝、経過報告のあと、室内でお話し合いがあり、小林宏氏が「カーキ色の青春」の
学徒出陣の部分を読みあげ、兵頭先生からの古いハガキを示して、戦死のお兄様、
小林蕃さんからたどっていって、潮田さんの名が浮上したいきさつをお話しになりました。

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(一橋大出陣学徒の碑と記名碑)

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(兵頭先生からのハガキを掲げる小林宏氏)

いしぶみ会の竹内氏が、方々に働きかけて得た情報によると、潮田脩さんのお兄さんの道彦さんも
同大を18年に卒業していて、戦後まもなく病死したとのことです。

そしてその後の5月末日、小林梨花さんから潮田さんのご遺族のことが明らかになったとメールが届きました。
「いしぶみ会」の竹内氏があちこちの名簿をさぐるうち、潮田さんの姪が神奈川に在住とわかったのです。
潮田さんの母上は、長男、次男に先立たれましたが、三男の家族と一緒に後半の人生を過ごし、91歳で
天寿を全うされた由でした。
「ご母堂が孤独な戦後ではなかったことがわかり、少し安堵いたしました」
と書く「いしぶみ会」の竹内氏です。
姪の方の存在が判明したからには、潮田さんの短い生涯の様子をもう少し
知ることができるかもしれません。今秋の学園祭には潮田脩さんの足跡について発表する予定だそうです。

潮田脩さんは70年を経てようやく念願の母校に帰れました。

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(記名碑最下段に載った潮田さんの名)
  1. 2017/07/02(日) 21:32:46|
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山からのたより  その24  2017年早春の巻

山からのたより  その24  2017年早春の巻

        山の男「ユウさん」       池谷キワ子


清水茶寮ホームページの読者の皆様お元気ですか。
東京エリアはここ一か月半ほど雨が降りませんでしたから、先日の久しぶりの雨は慈雨そのものでした。
早春の雨は命をはらんで大地に降り注ぎます。
これで春の芽吹きがいっせいに立ち上がるのです。
養澤ではこんなとき、「よいお湿りでしたね!」と声を掛けあって喜びます。

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人生のほとんどを山仕事で生きてきた「ユウさん」についてが今回の話題です。
いままでも「山からのたより」に登場してもらっている「ユウさん」。
何十年も我が家の林業の現場主任として、数名を率いて山に入ってきて、
最後は父の跡を継いだ私のもとでたった一人、一手引き受けで森林ボランティアの指導にも当たってくれました。
父が26年前に去った後、林業の不況は一段と進み、森林が販売しにくくなって、専従者を雇いきれなくなりました。
さらにユウさん亡き後は、作業手入れ会社や森林組合の最小限の手入れをお願いし、
不足を森林ボランティアの「そらあけの会」や「林土戸」グループに補ってもらっている現状です。
とにかく、父亡き後10年ほど、「ゆうさん」と私でコンビを組んで山の手入れに勤しんできたのでした。
「どっちの林地から先に手を付けようか?」「あそこは蔓も絡み、ひどいヤブ状態になっちゃているよ」
「こっちこそ放っておくわけにはいかねえなあ」「枝打ちは待ってくんねえし」。
検討し、現場へ行って見分して、私たちはいつも、仕事に追いかけられていました。
夏の間に終わらせるべき下刈りが、秋になっても終わらない年もありました。
そして82歳にしてまだ山に入っていたユウさんは、急に足首が腫れて、血液の病気にかかり、
あっという間にお別れしてしまいました。

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写真上(葉っぱのお面を作って幼児と遊ぶ)
写真下(森づくりフォーラムの下刈り大会で挨拶するユウさん・中央で帽子を手に)(雪害跡を見回る1986年)

ユウさんは、捨ててあった建築端材を拾ってきては山の休憩所を造ったり、
崖地に渡り橋を架けたりするのはお手のもの。
田舎のマルチ人間の典型で、生きる力に長けていました。
特にユウさんの山仕事への気概と誇りは天下一品、細心で注意深く、仕事の段取りにも優れていました。
囲碁の詰めのように次々と手順が浮んで来るらしく、
時には「はてな?」と自問自答しながらも能率よく仕事を進めていました。
ユウさんと父は、山の事で意思疎通は完ぺきでした。
林地のほとんどの箇所に通称があり、ない所は「~岩」「~クボ」と勝手な呼び名を付け、
一言でそこの林地の様子が二人のまぶたに浮かぶのです。
でも、父から私へと代が変わると、彼の養沢流「言わなくても分かんべえ」が通じなくて、
お互い途方に暮れたこともありました。
ユウさんは、組織にいたなら擦り減ってしまったはずの純朴さをたくさん持ち合わせていて、
それが時に、私との間で誤解が生じるのでした。
そんなことはわかっているはずと言葉を尽くさない私は、今思い返すと欠点だらけでした。

いつもは陽気で磊落な笑顔が魅力のユウさんです。
が、ある日とても不機嫌な日がありました。
理由はすっかりわすれましたが、にこりともしないで表情が険しく、
がみがみ言ったと思ったらそっぽを向いている、私はそういう時、取り入るのが苦手で、
遠巻きにしてほとぼりが覚めるのを待つしかないのでした。
ちょうどその日はボランティアが来ている日で、みんなはユウさんと親しくなっているものの、
やはり近寄りがたいのです。
ところがひとりが、「でもね、ユウさん」「ここは如何したらいいの?」「ユウさん教えてくれなくちゃあ」と
付きまとってしきりに声をかけます。
「自分で考えりゃあいいだあゎ」「俺は知んねえ」、とりつくしまもないのです。
「そんなこといわないで教えてよっ」さらに迫るその若い彼女に、さすがのユウさんもかたい心が次第にほぐれて、
普段の表情が現われてきました。はるか年長の私は脱帽でした。
もとはと言えば、私の指示の出し方に不満があったらしいユウさんです。
ボランティアさんたちには、その若さと明るさでずいぶん私は救われてきました。
二人だけでのすれ違いの時は「そんなつもりで話したのでは毛頭ない。
この胸を開いて見せてあげたい!」と私は言って、
最後に氷解すると握手を交わして、仲直りです。なんだか子供同士みたいでした。

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白黒写真(ボランティアさんとお昼の味噌汁。
撮影はマスコミカメラマン、名称不明)

それでもユウさんは私を上司としてずいぶん我慢してくれたようにおもいます。
不満の箇所を上手に言葉に託せなかったのです。
苦労を背負った生い立ちだったようでした。
最後のころ、病院へ見舞ったときに涙を浮かべて話してくれたけど、
私が背景をすっかり理解するほど洗いざらいではなかったので、今もってよくわからないのですが、
彼が気を遣いすぎて逆な意味に解釈するところは若いころの境遇も影響しているのかもしれません。

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写真上(雪越こしで、針金を使って木を引っ張り立てる指導をするユウさん)
「旦那(父のこと)亡き後は杖をついてでも山に行く」「百歳でも枝打ち現役とテレビにでる」と
口走っていたのに「約束が違っていますよ!ユウさん」と言いたいです。

70年以上も前、戦争のため木々を伐り出し過ぎて、禿山が多くなり、大洪水もたくさん起きた日本の山。
国から植えよ育てよと緑化が奨励されて、その先頭にたったのが、全国の「ユウさんたち」でした。
戦後間もなくはまだ、林地に作業路もなく、チェンソーや下刈り機なども開発されず、
身体を張って、来る日も来る日も山に埋もれ、木々と格闘し、緑にまみれた山の男たちでした。
彼らが、日本の森林の40%を占める人工林を仕上げてきたのです。

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ユウさんのような純真すぎる心、それでいて「おれはおれ」と自分を信じ切る大胆さは、
自然にどっぷりと浸った長い歳月のなかで育まれたのではないでしょうか。
今でも森林ボランティアの心の中に生き続けていて話題が絶えないユウさん。
今回は実像写真とともに、在りし日を偲びながらありのままを紹介しました。
  1. 2017/03/06(月) 11:02:42|
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山からのたより その23  2016年秋の巻

山からのたより その23  2016年秋の巻

山作業の手道具と仕事着       池谷キワ子
                            2016年11月10日 

寒くなりました。お元気にお過ごしですか。
日本の国は三分の2が山で、ほとんどが山頂まで厚く森林に覆われています。
外国人は自国の川と比較して、
「河川ではなくてあれは滝だ」なんて言われるほど急流の部分が多いのです。
山も傾斜がきつく、成り立ちが複雑な地形となっているので、
森林を育てて伐り出すのになくてはならない林道が造りにくいというわけです。

私は調布市に住み、車を1時間余運転して、あきる野市養澤の林地に通っています。
中央高速を調布インターでのると、はるか遠くに丹沢山塊と奥多摩連峰が望まれ、
八王子出口に近づくにつれて今度は大岳山、鋸山、
三頭山といった秋川を育む山並みが立ちはだかってきます。
特徴ある大岳山の、象が寝そべった姿はそこからの道中ずっと見えていて、
五日市駅付近になって、さらに近くの金毘羅山、馬頭刈山にさえぎられてきます。
それから10分ほどで養澤の山ふところ辿り着くと、四方は一面の「みどり」、
スギヒノキの人工林が多くて、それが「緑豊か」とも「年中ダークな色で鬱陶しい」ともいわれます。
私にはほっとする眺めです。
仕事を終えて調布の家にかえるとき、次第に山々が遠ざかり視界から消えていくと、
わたしは後ろ髪引かれる感じになります。
日暮れが早い枝打ち時期(秋から冬の間)には月がのぼり出し、
ずっと調布まで道づれにすることがあるのは楽しいものです。

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(養澤の家周辺。臼杵山を望む)


今日の主題は「山の手道具」です。

「鎌(かま)、鋸(のこ)、鉈(なた)」これが山仕事の基本的三種の神器。
それぞれに用途によって大きさや形が変わって各種あります。
これらは長い間愛用されてきていて、毎日何度も砥いだり目立てをしたりして
自分のからだの一部のように大事に使い込んでいくものでした。
柄は自分の手に合った太さに手づくりする、刃渡りも望むような大きさに鍛冶屋で
オーダーメイドする、砥いで鋼が擦り切れるまで使うというふうでした。
いまではのこぎりの替え刃や安価な鎌が出回り使い捨てが一般化してきました。
その上チェンソーや刈払機、枝打ちロボットなどの石油系の動力機械の普及で、
効率も抜群に高まり危険もさらに増しました。
どんな道具も山仕事では、木や固い草を伐り、研ぎ澄ました刃物を振り回す世界ですから、
足元不安定な山では危険と隣り合わせです。
それだけに集中して作業にうちこむとき、「余念がない」という言葉がぴったりとなります。

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(長鎌と手鎌、鋸各種)

父もユウさんも自分の身の丈に合った手道具を分身のようにいとおしんでいました。
いま残された彼らの、汗がにじんで使い古された道具をみると、
山で笑いあっている二人の姿が目に浮かんできて懐かしくなります。

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次に山作業のスタイルです。頭にヘルメット、もちろん長袖長ズボン、地下足袋、首に手拭い、
軍手、ベルトに下げた鋸や鉈(なた)とそのほかの七つ道具。
どこにでも座われて汚れていい格好は「昔のバンカラ調」です。それを勝手に粋がっています。
地下足袋は、山の凸凹の地面を足裏がしっかり抱いて滑りにくい、
枝打ちで梯子や枝に乗ってしっかり立っていられる履物です。
数少ない女性サイズもこの頃は手に入りやすくなりました。
今時はやりの山ガールと林業女子は、少しスタイルが違います。
林業では作業をしますから。

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(鉈は右が枝打ち用、左は腰用の細鉈)

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(道具小屋。左に刈払い機、右にヘルメット)

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(葉の香りが強いクサギの花)       

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(サラシナショウマ、根に薬効がある)

私はちょっと変わり者で、枝打ち時以外はいつもゴム長靴を履いています。
この紙面に、仕事着のさまざまな格好や、まだほかにもいっぱいある手道具の
写真や解説を載せられないのが残念です。

岳人、田部井淳子さんは「山に行くと体の細胞が『解放』となって、
イキイキしてくる感覚があった~」そうで、森林の中にいると、確かにのびやかな気分や
身体のリフレッシュを貰らえると思っています。
今年の紅葉は遅くて地味な色合いです。
  1. 2016/11/13(日) 19:46:35|
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山からのたより その22  2016年夏の巻

山からのたより その22  2016年夏の巻
  
 山のニュースあれこれ       池谷キワ子
                           2016年7月3日 記

冬の巻からもう半年、「山からのたより」は長くご無沙汰しました。
養澤川には今年もホタルが飛び始めています。
ホタルの繁殖にまったく手を加えていない養澤ですが、苔むす流れに餌となる
「カワニナ」という巻貝が自然生息していて、ホタルは昔から絶えることなく養澤の夏に
彩りを添えてきました。
そらあけでは、この4日には「ホタルの夕べ」を催すことになっています。

山村は、四季の面差し、天気や気温の変化、自然、すべてが際立っています。
都会の生活が著しい変化を遂げて「便利」というひとことでくくられてしまったここ100年、
暮しやすさでは大きく水をあけられた山村の暮らしぶりです。
その間も、四方を囲む山は一センチも低くならず、むしろ植えられたスギ、ヒノキがどんどん
成長して山のはざまが狭まったくらいです。

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(写真:「ホタルブクロ」はホタルが飛ぶころ咲く)

長い林業の不況は山の木を伐採してあらたな苗を植え付けるという林業の
循環を阻止してしまい、私の家の山(林地)も伐採がないので、
手入れの必要な若い木々が少なくなっています。そらあけの会が17年もの長い年月、
若い森林の手入れをやってきてくれたからです。もうほとんどの林地がとりあえずの
作業を完了してしまったといえるほどです。そこで拠点の「養澤本須集落」にかぎって、
放置畑の整備にも乗り出すことになりました。
家々の周りにある小さな畑も、以前はくまなく作物がつくられていましたが、
サラリーマン世帯が多くなり、畑に手が回らなくなっています。
それに、日当たりの少ない山畑で採れる作物は限られますし、どんな野菜も簡単に手に
はいるようになったのだから当然です。作付けのない畑もさらに拡大してきました。 

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(写真:養澤川の源流あたり。この少し下流にはホタルの幼虫の餌、カワニナが生息する)

まず私の家の篠竹藪になった畑を開墾し、そこに昨秋にキウイ苗を植え、
フキやワラビの山菜を試験的に山から移植してみました。
そして今年3月末には山梨県笛吹市の前嶋農園から前嶋和芳氏が「野生ブドウ」を6本持って、
植え付け指導にきてくださいました。
キウイもブドウも蔓を這わせる棚をつくらねばならないので、
今はスギやタケを集めて支柱の準備しているところです。

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(写真:篠竹の密集した藪だった畑は切り払われて少しずつ整地。2015年秋の様子)

前嶋さんは30年来試行錯誤の上、無農薬でモモの栽培に成功したかたです。
雑草を果樹の周囲に茂らせ、クモも生息させて、モモの害虫が自然生態系のなかで淘汰され、
モモの木まで到着しないようなシステムを作り上げました。
そのモモは普通栽培の他家のモモと遜色ない、むしろそれ以上の栄養たっぷりです。
甘くて、本来モモ自身が持っている力を発揮させて実らせた果実です。
長年苦労を重ねた前嶋さんの無農薬モモ作りについては、ここでは詳しくのべられませんので、
どうぞネット検索してみてください。

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(2016年3月28日。赤い手袋の前嶋さんとそらあけの会のメンバー。野生ブドウ植え付け)

野生ブドウという一般に広まっていないこのブドウは、施肥しなくても痩せた土地で育つ、
小さな粒の天然種です。商品化されていないのは、小粒で甘さも少ないためですが、
栄養はリッチで、一日一粒食すだけでミネラルなどが十分補えるそうです。
すでに腰丈ほどに成長していて、これからが楽しみです。

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(写真:成長した野生ブドウ。3種類で、両性の種と雌の種があり、雄株は秋に植栽予定)

そして6月はじめには、近隣の家が所有する畑で、長年放置されて灌木が
生い茂ってしまったところを伐り開く作業にも手を染め始めています。
伐開が済むと本須集落の景観がさらによくなると期待が高まります。

また、6月4日には「サウジラビア」から20名の親子ツアーがやってきました。
「ささんた小屋」でくつろぎ、その下の養澤川で水遊びをして、山にはいりました。
この砂漠の国は木も水辺も少ないようで、緑がモリモリした養澤の様子に目を見張っていました。
まず木の香漂う「ゆうさんち」を見てもらい、私の家の納屋や古い和室に案内してから、
そらあけの会メンバーの協力で山を歩き、林内でお茶摘み体験もしました。
あるお父さんは枝がいっぱい落ちている林地を見て
「1か月ほど山のボランティアに来てあげたい、ささんた小屋に泊まりたい」と本気で言っていました。
後から聞くと「9日間の日本の滞在の中で、養沢行きが一番印象深かった!」
全員が異口同音に答えていたそうです。
わたしたちも、食べ物のハラルや、髪の毛と肌を一切見せない服装など、
文化の違いの大きさをたいへん興味深く思ったことでした。

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(写真上:林内で。帰りがけに「日本の伝統的な文化を後々まで伝えていってほしい」と
お母さんから感想をもらいました。)

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(写真中:養澤川で遊ぶ子供たち)

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(写真下:日本に留学したいと語る学生たち)
サウジアラビア写真:日比典子、澤田衣里子
  1. 2016/07/04(月) 20:46:30|
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山からのたより その21  2016年冬の巻

            山からのたより その21  2016年冬の巻

               居心地のいい井戸入り山林!
                                      
                                           池谷キワ子

暖冬と言われていた今年ですが、ここへきて寒さも増し、雪が積もりました。
1月18日には15センチほどで、粉雪の舞うこの時期なのに重く湿った雪、少し森林に
被害があったようですが、まだ実態はつかめていません。

今回はみんなのお気に入りの森林の紹介です。
それは井戸入り山林と言って、養澤の家のすぐ裏手、井戸入沢に沿って13ha
(ヘクタール)がまとまっている我が家の所有林地です。
そのうちの7ha、沢の左岸が28年生のヒノキ林になっていて、植えた当初から、
作業員のユウさんたちやボランティアの協力を得て、私自身ずいぶん通い詰めて、
大事に育ててきました。

この林地は、1986年に激甚災害となった大雪害が発生して、森林すべてが潰れて
再植林したものです。40年生も60年生もほぼ全滅で、裂けて曲がり折れ、片付けて
跡地に植え始めるのに3年もかかってしまいました。

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(井戸入り山林、1986年の雪害場面1)

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(井戸入り山林、1986年の雪害場面2)

私の家から緩やかな山道を15分ほど井戸入り沢に沿って登ると、この雪害跡地植え
の林地に到着します。70年の歳月を経て伐り出して商品となるスギ・ヒノキですが、
幼齢林時代がもっとも手がかかります。よろよろして幼かった木々の世話に何度ここ
へ足を運んだか、数え切れません。7歳ぐらいからすっとボランティア「林土戸」
「そらあけの会」にもお世話になってきました。
中ほど地点に、たき火のまわりを間伐木でかこって休憩所が作られています。

写真は1995年下刈り大会の会場になった時のものです。
ボランティアが草を刈っている姿が見つけられますか?

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このときヒノキは7歳。右は同じ場所で2013年、そらあけの会が枝打ちを6メートル
までしている様子です。今年(2016年)28歳。しっかり育ち、草に埋もれて窒息しそう
な幼い苗のころ、雪で曲がって起きられず、世話されたことを木々たちはすっかり
忘れたようで、大人の樹の風格をかもし出してきました。植えたばかりの7年間は、
炎天下の草刈りを毎年してやり、その後は枝打ち2回、間伐1回して、写真のように
林内には光が入って下草が生え、緑のダムの効果ある森林になってきます。
写真でおわかりいただけるでしょうか。

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(光が差し込んだ林)

井戸入沢は日照りが続いてもけして涸れることなく、このように透き通った水を
サワサワと流し続け、沢沿いの道を歩くと、目にも耳にも心地よいものです。

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(透き通った水が流れる井戸入沢)

何百年もの昔から、周辺の家々の大切な飲料水でした。
夏には孫たちが井戸入りで虫取り、沢歩きで大はしゃぎでした。

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(虫取りにおおはしゃぎ!)

この水辺に春は蝶々、夏はオニヤンマなどのトンボ、ルリビタキなどの鳥たちが
来て水を飲み、水中にはサワガニやヒルまで居て、イノシシやシカの足跡まで
周辺についていたりして、水の流れは生命体の憩いの場所です。

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(お茶場と呼ぶ休憩所での森林見学者たち)

そらあけの会では3年前「海布丸太」を仕立ようと、すこしのエリアですがスギを植え
ました。ヤマザクラの咲く4月上旬が植え付け時期です。苗は2尺(60センチ)。
これから十数年後に手すりや垂木(たるき、軒端に使う小丸太)に仕立てる予定です。

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(スギを植える作業場面)

同じ林地に通い、成長していく木々を見守り育てていく、山は、春に芽吹き、夏は
緑にあふれ、紅葉し、寒い時期は眠りに入る。光の踊る晴れの日と小雨に煙る霧の日
では大違いの林内です。
日々を重ねて山に入り、木を育て続けると、やっと林業の面白さがわかってきます。  


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(ヤマホロシ) 

「ヤマホロシ」(赤い実の写真)は部分的にですが秋には群生して地面の広がり晩秋
には沢沿いが「フユイチゴ」の赤いカーペットに覆われます。初秋の「ツリフネソウ」は
お茶場前の小沢にいつも咲きそろう、年によって草刈を遅くしたりすると見られない
こともあります。
さまざまな花や実が季節を間違えず現れる井戸入りは、それだけ多くの人や動物や
鳥が徘徊して、種子をまき散らした結果といえます。
山案内の地図の井戸入沢お茶場付近を貼りつけます。

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右の寫眞はワサビ田です。私がこの世にいなくなってから数十年して、やっと伐期が
くるこの森林です。
はたしてそれまで雪害にも会わず一人前の材木として出荷できるでしょうか。
  1. 2016/02/11(木) 22:22:48|
  2. 山からの便り
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山からのたより  その20  2015年秋の巻

山からのたより  その20  2015年秋の巻

      がんばり「じろべえ爺さん」                   池谷キワ子

今秋も災害の多発の季節になりました。清水茶寮関連のみなさま大丈夫でしょうか?
今回の「山からのたより」その20は、我が家の先祖のことです。
といっても普通の人の話なので、山村の昔人の一例として読んでみてください。

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(「キバナアキギリ」 サルビアの日本原種だそうです (15年9月21日)

養澤という集落のもっとも下(しも)の本須(もとす)部落に私の生家があります。
「先祖代々林業を専業にやってきました」といつもはなしていますが、
正確には私より五代前の当主「池谷治郎平」(いけたにじろべえ)((1807~1900)から
専業になったようで、それまでは規模がごく小さい農家林家でした。
治郎平は百姓をしながら「馬搬業」で小金を溜め、「零細金融業」を営んで林地所有を
すこし広げていったのです。
「自らが植えた山を横目で見ながら、汗を流して馬を引き労働に励み」
(郷土史研究家・石井道郎氏資料)94歳まで生きたのでした。
それからの子孫は林業を主業とする専業林家として、「じろべえ90(くじゅう)爺さん」と呼んで、
彼の植えた木々を売り、跡地に植林して生計を立てるようになりました。

『我が国経済の担い手』(太田研太郎著・昭和24年発行)に青梅林業地のY(養澤)集落I家
として登場しているのが私の家です。そこには畑作高まで微細な収入まで盛り込まれていて、
初めて私は、家の歴史、昔の経済状態を知ったようなものでした。
実はこの本は我が家に存在せず、16年前に東大の筒井迪夫先生が森林視察に訪れて
初めてこの本の存在を知りました。林業図書室というべき文庫が赤坂・三会堂ビルの地下室
にあり、発行から50年して初めて読みました。作者はあけすけに我が家の事情を公開して
しまったので、この本を送付できなかったのではなかったかと思われます。
思い切って著者である晩年の太田先生を訪問したのは15年前です。
昭和23,4年に作者の太田先生にお貸ししたたくさんの記録データがもどってこなかったという
経緯もあって「ご返却いただけないか」とお願いしましたが、
「年月が経ち、手持ちの膨大な資料にうずもれてどこにあるかわからない」というお返事でした。

この本によると、「じろべえ(治郎平)爺さん」は「体躯壮健の偉丈夫」、
「衆望を担って養澤村戸長を勤めた」と書かれています。
最晩年には、朝暗いうちから廊下に座り込んで山で働いてくれる人の挨拶に相好を崩して
いたそうで、「起きたらすぐ顔も洗わず池谷へ山行きの挨拶に行き、それからゆっくり朝食を
摂ったものだ」というエピソードも残っています。

「夫婦揃って山麓から土を運んで岩ゴロの奥地にまで植林した」とは祖父からの話です。
「植林した」と一言でいいますが、薪炭林である広葉樹林を切り払らってスギ・ヒノキの人工林
を作るのは拡大造林と言ってたいへんな労作を要します。

「じろべえ」は肖像画も写真も残っていません。
そうした先祖から代々山林を引き継ぎ植え替えてきた我が家です。逢ったことのないこの先祖を、
私は林業をするうちにとても親しく感じるようになりました。

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(寫眞は「じろべえ」が晩年に建てた門と蔵。明治20年ごろ、向う山は一部が所有林)

「じろべえ」は、息子が自分より先に身罷ったため、孫の精一(初代・私の曽祖父・安政3年生れ)に
林業の薫陶を授けましたが、精一は60歳で他界。

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「池谷精一・初代」画(1856~1915曽祖父)

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「祖父、池谷精一・二代目と父、池谷秀夫、大正11年1922撮影」(1882~1960)(1909~1991)

その彼ももっぱら山づくりに励み、祖父の精一(二代目)(明治15年生れ)、父(明治43年生れ)と
順次これを受け継ぎました。明治34年死去した「じろべえ」と私の祖父・精一(二代目)は
20年近く共に生きたのです。どんな人だったかもっと聞いておけばよかったと思うことです。
「じろべえ」ら先祖の植えた木を、「一本でも多く山に残しておく」のが我が家の家訓となり、
つつましく他業に乗り出さずやってきたのでした。家業を林業だけに絞ったということで、
ここ3,40年来の林業不況により面積広く伐り進まねば手入れが追い付かず、
林齢が平準化(法正林という)していた森林構成が、私の代ではすっかりぐらついてしまいました。
1986年の大雪害でさらに拍車がかかりました。

すぐの裏山には「じろべえ」が植えた140年生の林地が少しあり、そうした残された古い木たちは
ものいわずに昔を今につたえています。スギ・ヒノキは植えられてから一歩も動けない、
あてがわれた場所の条件に合わせて懸命に生きている、そのようすが山に長くかかわると
ひしひしと感じられることです。

「じろべえ」はまた、山に「すもも」も植えて、自ら八王子へ運び、それが評判を取ったらしく、
その林地は「ももの窪」と呼ばれてきました。「すもも」の残りの一本が我が家の裏庭に
植わっていました。外皮はうす緑なのに剥くと真っ赤に透き通った果肉は甘く、夏に鈴なり
に実るのでしたが、十数年前、さすがに老化が激しくなって切り倒しました。

昔の人は子孫の繁栄を願う気持ち、地域の発展を望む思いが今の時代の人よりも数段に強かった。
つい忘れていることですが、子孫の私たちはもっと感謝しなければならないのでした。
林業をやる者、自然にかかわる者は、自分の存在しなかった過去に思いを馳せ、自分の去った後の
未来を思い描く能力がより強く求められているのでしょう。
時代を超えた長い水平視野を持つことは、ビジュアル化された現代、かえって能力が落ちている
分野のような気がしてなりません。いま特にそれが求められている時代かと思います。

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(「じろべえ」が明治初年ごろ植えた裏山のスギ、140年生。ピンクの花はシュウカイドウ)
(15年9月21日撮影)
  1. 2015/09/25(金) 08:43:42|
  2. 山からの便り

山からのたより  その19  2015年夏の巻

山からのたより  その19  2015年夏の巻

養澤の山はこれから?      池谷キワ子

清水茶寮ホームページの読者のみなさま、こんにちは。
またご無沙汰してしまいました。
人は齢を重ねるにつれ、四季の巡りが足早となるとは誰でもいうことですが、今年の
ように寒さから暑さがひとっ跳びだと、ふと気が付くといつのまにか夏が来ていた
といった感じです。
そして梅雨に突入でした。

7月になるころ養沢川ではホタルが舞いだし、ネムの木が夢見がちなあわいピンクの
花に覆われます。
ホタルブクロの薄紫の筒状の花はその名にぴったりです。
川沿いの「ささんた小屋」の斜面にはヤブカンゾウが橙色に咲き出し、ホタル見物に
最適の場所となっています。
でも、今年はさらに、前回に紹介した「ゆうさんち」がもっと目近に川面のホタルが
見られるようになりました。

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(ネムの木と養沢川6月29日)

林業は商品ができるまでにこのあたりではだいたい70年かかります。
ちょうど終戦のころ植えた木が、今やっと伐り出せる時期を迎えています。
ところが材木価格は大幅に下落したままで推移しています。
養澤では、山に林道や作業路が入っていませんから、架線集材と言って山の斜面の
空中にロープを張ってトラックに積める道端.まで木材を下ろす出材です。この方法では
経費が掛かり、丸太市場で材を売っても、その手間賃だけで売上が消えてしまうのです。
この地域は林地が小刻み所有で、地形が複雑に入り組んでいるからです。
そこで林業者同志が手を組んで協力しあう「集約施業」をしていきなさい、林道や作業
路をつなげてつくり、山から木を伐りだすコストをさげるようにしなさいと、ここ数年間、
林野庁からの指導が続いています。
でも私たち養澤地域は小規模所有者ばかりでこの取組みが進めにくい現状でした。

そこに登場したのが築地豊さんです。彼は森林ボランティアから作業のプロに転向して
十数年。最近になって林業の仕事を請け負う、一般財団法人「木の和(このわ)」を作り、
養澤地域を中心に林地を所有する山主さんに賛同してもらって、林野庁の進める集約
施業を展開しはじめました。
築地さんという第三者がわかりやすく熱心に説明するので信頼が徐々に得られてきて、
3年近く経ち、15人ほどの所有者が賛同してくれています。
林業離れが加速する今、私はこの方法に「林業の未来がある」とたいへん期待してい
るところなのです。

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(写真↑伐採する築地さん ↓昨年造成した作業路。林内に延ばして出材をしやすくする)

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養澤では、江戸時代の終わりの頃から、天然林を伐採してはスギ・ヒノキを植樹して
人工林の林地を増やしてきました。寒村で山林しか暮らしに役立てられる自然はなく、
各家は、薪炭用の広葉樹林をスギ・ヒノキ林に仕立ててきました。
これは拡大造林といって大変な労作がかかります。
自分の生きている時間のうちには収穫できないという性格の仕事なのに、汗水たら
して子孫のためにと頑張った先祖たちです。
さらに「共有林」という、何人かで共同出資して林地を買うか借りるかし、苗を求め、
力を合わせて手入れに励み、育ててきました。
養澤地域は一人の力が弱かったためか、手を携えて励む気風があり、たくさん
「共有林」があるのです。でも、その地権者が相続や登記の手続きをやってこなかっ
たために、いま私たちの抱える大きな問題となっています。

戦後はとくに、燃料革命など森林を取り巻く状況が急激に変貌しました。
長い時間を必要とする林業、急に手の平を返すように造り直しはききません。
そしてやり直したとしても、それが成熟したあかつきにはどんな結果になるか分かり
はしないのです。だから林業は、不況のときも繋いでいくことなのでしょう。
どんな好景気の時代でも、木は同年輪しか刻まない。
肥料をやって早く肥らせたりすると建築に向かない力の弱い材に育ってしまいます。
人間の事情など関係ない、ほとんどを自然界にゆだねた仕事です。それでも、適時に
手入れをしないと枯れたり曲がったりですし、時には雪や台風で林が折れ裂けてゴミ
と化してしまうこともあります。 ↓ 
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(↑このまま放置すると曲がり木になる 10年生ヒノキ林 )

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(↑1986年の激甚災害となった雪害  池谷山林 撮影池谷キワ子)

今回の山からのたよりはちょっと理屈っぽいですね。その上、以前に書いたことと
ダブった内容もあります。
ただ養澤の林業に薄い光が差し始めた「集約施業」、これからです。
続きを書きたいと思う日が早く到来してほしいと願っています。
  1. 2015/07/10(金) 08:50:15|
  2. 山からの便り
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山からのたより その18  ‘15年早春の巻

山からのたより その18   ‘15年早春の巻

本の感想「鉄がそんなに大事とは!地球は鉄の惑星だった」
                         
池谷キワ子

 清水茶寮のみなさまこんにちは。ようやく春の足音が聞こえてきました。
山のひだまりに「オオイヌノフグリ」「スミレ」が咲き出し、
庭先の落ち葉の懐に黄色い「フクジュソウ」や「ヒガンバナ」の緑の葉が目につきはじめました。

今回は本の紹介です。

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「森は海の恋人」と称して、気仙沼のカキ・ホタテ養殖漁業を営む畠山重篤氏たちが、
山に木を植える運動を長い間やってきたことは、広く知られています。
本やTVでお話を聞いた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
わたしも10年ぐらいまえ羽村市で、「山を手入れすれば下流の海が豊かになるのだ」という、
日焼けして髭を蓄えたやさしい風貌の畠山氏のことばに接しました。
前回この欄に登場した、そらあけの会Oさんは、つい最近、この畠山氏から身近にお話を聴く
機会を得たと『鉄は魔法つかい』畠山重篤著(小学館・1300円)の本を私に届けてくれました。

畠山重篤氏は50年にも及ぶ漁業の傍ら山にも熱い視線を送り続け、
さらに「森には魔法つかいがいる」と聞かされていた、
そのおおもとを探るため研究者から意見を聞いたり、海の調査の協力をしたりしてきました。
このことをエッセイや学校の副読本も書いてきています。
東日本大震災では、牡蠣の養殖場だけでなくお母様まで津波で失ってしまいました。
そんな中でも勇気をふるって出版したこの本は、たくさんの漫画風イラストや問答形式にして、
子供にも読みやすい、でも内容はとても深い問題を語り掛けています。
地球にあるいのちは、実は鉄の力のよるものだったというのです。
鉄がさまざまな大切な元素の結び付け役として、光合成する植物、川の水、深い海、
人間の身体の中、あらゆるところで活躍していることを
鉄の研究第一人者ジョン・マーチン、広島大の長沼毅ら、幅広い科学者たちから聞きただし、
わかりやすく解説していて、私には「目から鱗」の読後感でした。
中国から黄砂に混じって飛ぶ鉄、アムール川上流大湿原から運ばれてくる鉄、
海に運ばれた鉄は沈んでから大回遊をして黒潮に乗って浮上する鉄。
これら微量な鉄が微生物やプランクトンを養うことで、たくさんの豊かな生命体がピラミッド状に
つくりあげられるのでした。
でも、この興味深い実証を一口で紹介するにはとっても難しい、まずはご一読をお勧めします。

はげ山から鉄分が流れてきてもそれではだめで、森からの腐葉土に作用して「フルボ酸鉄」という
結合体にならないと、植物プランクトン発生の役に立たない。
そして川が海と出会う汽水域(きすいいき)が、生命体にとって豊かな役割を果たす大事な場所だそうです。
多くの地道な研究者によって切り開かれようとしている鉄が絡んだ地球上の生命の謎を、
畠山さんはその仕組みをやさしく語っていきます。エピソードは世界中にわたっています。
「赤毛のアン」のプリンスエドワード島がロブスターの好産地なのも、島自体が赤い土に
覆われていることに関係している、原題と違えて題名に「赤毛~」と名付けて多くの愛読書を
得た村岡花子さんですが、この鉄の多い島をイメージしてのことではと畠山さん説を唱えています。
身近で柔軟な発想、これがこの本の大きな魅力です。

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私の山では、5,6年生以上の幼樹、たいていは2,3メートルですが、雪や風でよく倒れます。
その時起こしてまっすぐに立ててやる「雪起こし」は以前は針金を使っていました。
木々が立派にすっと伸びてくると、不要になった針金がゆわえつけた枝にぶら下がったり林内に
捨て置かれたりしていました。「針金は腐るから大丈夫だ」山仕事のユウさんは言っていました。
そのとおり、危なくないようにしておけば、このごろ使うビニール紐よりずっと環境的なのがこの本で
よくわかったのでした。
(たくさんのイラストが楽しい。「赤毛のアン」のプリンスエドワード島の紹介。右下は筆者の似顔絵。124ページ)
  1. 2015/02/25(水) 12:40:10|
  2. 山からの便り

山からのたより その17  14年冬の巻

山からのたより その17  14年冬の巻 リーダーOさんのこと       

                                         池谷キワ子              

おたよりがまた滞ってしまいました。
10月には白井啓子さんが初めて養澤の山を訪問してくださり、初対面を果たしました。
ここ何年も清水茶寮ホームページに書いてきましたので、私には旧知の方のように
思えた出会いでした。でも、その時の模様はすでに白井さんが書いていますから、
ここでは詳しい報告はなしにします。
いままでのおたよりで、山のよさばかり書いてきましたが、実際、森林に足を踏み入れると、
朽ちた枝葉や倒れた木々が散乱している場所もあったりして、
養澤の森は「絵のようにきれい」ではないことが白井さんもお分かりになったことでしょう。

「そらあけの会」は、15年余り前、主婦4人で始めた森林ボランティアグループです。
リーダーのOさんは羽村市在住、その時50歳ぐらいでしたか、蔓を編んで大きな籠を作ったり、
援農に行ったり、たくさんのことを精力的にこなしていました。
雪害で森林がめちゃめちゃになっている現場を見学して林業の現状を知ったといいます。
多摩の森林は、戦後の拡大造林でたくさんの人工林が造られ、その後の材価の下落続きで、
手入れが見放されてきました。
そうなると、水を育んだり山崩れを防いだりの役目も果たしにくくなります。
1999年スタートの「そらあけの会」は、月2回の月曜日に15年間、休むことなく下刈り、枝打ち、
間伐、などの山作業を続けてきました。それはOさんの説得力ある話しぶり、なんでも率先垂範、
みんなを思いやる心、リーダーシップがあったからでした。
今では会の宝物のような存在です。その後は男性会員も増えて今では15人ほどの参加です。

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(枝打ち林地で話をするOさん。手前左)

千葉で育ったOさん、若い日々はテニス三昧だったそうで、体力抜群です。
作業林地に到着したと思ったらもう、休憩場所のあたりを鎌で切り払い、唐鍬(トンガ)で整地し始めます。
みんなが居心地よく過ごせるようにいつも心を砕いてきました。
両方のお母さんのお世話のため、ここ数年は、実際の代表の座を降りています。

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(山から材を切り出すそらあけの会、みんなで皮を剥きました。次ページの写真)         

ところが昨年、山仕事のプロで、初期そらあけの会の師匠だった
「ユウさん」の家が売り出されたのを受けて、Oさんはセカンドハウス用にと購入して改築。
ボランティアの憩いの場所としても解放してくれています。
そらあけ道具小屋からも、川を隔てて真向いです。居間は内装が地場の板で新しくされ、
目の前には養澤川が窓を通してワイドに広がり、まきストーブが燃えて、そらあけメンバーは
大喜びとなりました。
ユウさんも天国で、素敵に生まれ変わった我が家がみんなに使われていることに、
さぞ目を細めているに違いありません。

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(磨き丸太が玄関の桁と柱になりました。ここの網戸も木枠です)

Oさんの山へ注ぐ気持ちは限りなく広がっていて、
先代の人々が造ったスギヒノキの多い多摩の山を健全に整備したい、それには地場の木を
もっと使ってもらうことだと、「ゆうさんち」と名付けたこの家の目的のひとつにしています。

そんな「山の応援団長」であるOさん、ご家族と折り合いをつけながら、これからも周囲のため、
養澤集落のために元気で活躍してほしいとみんなが願っているところです。

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(「ゆうさんち」の庭で玄関用の柱の皮を剥く、バックは養澤川と堰堤)

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(雨戸も板製の手作りです。ベンチを造る会のメンバー)

  1. 2014/12/16(火) 16:49:08|
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山からのたより その16  14年夏の巻

山からのたより その16  14年夏の巻
                             池谷キワ子

清水茶寮のみなさま、ご無沙汰しました。
パソコンを替えたりするうち私自身の身体的トラブルも発生して
季節が廻って来てしまいました。
今年の夏はなんという天候の不順さでしょう。特に西日本や裏日本は
びっくりするほどの雨量で、広島市での山林崩壊は犠牲者が多数で
ほんとうに痛ましい出来事でした。

今回は「山の香り」について書きたいと思います。
山に入るといつも湿った土や草の自然な香りを感じます。
とくに芳香というわけではないけど、なぜか心が落ち着く気分になるのです。
花では、独特の香りを発するのは「ヒサカキ」の花。
春まだ早いころ個性的な匂いをかなりの範囲に撒き散らして強い自己主張しています。
これに出会うと「春の息吹きが萌え出してきた!」と思うのです。   

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(↑「ギンリョウソウ」6月)

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(↑間伐したら「キンラン」出現、白花は「ウツギ」4月)


山で匂い立つものは「サンショウ」です。
下刈りでこの小さい木を伐ると、辺り一面に飛び散る爽やかな香り、
おもわず深呼吸してしまいます。サンショウは実も葉も幹も匂いの塊です。
棘が枝に対生しているのが「ホンザンショウ」、互生していれば「イヌザンショウ」と
いって香りが少ない品種です。
サンショウは実も葉も食卓に欠かせません。幹は「すりこぎ」です。
いまブームの和食ですが、「かおり」の要素が大きいと思います。
もっとも外国でも、ハーブ、香草、香辛料がたくさんありますけれど
。山菜は普通の野菜に比べて特に匂いが強く、ワサビ、フキ、茗荷、シソ、山ウド、
どれもその味わいには香りの部分が強いですね。

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(↑「ツリフネソウ」 9月)

山でかおりの強い木といえば、もちろんわたしたちが育てている「ヒノキ」。
油脂を多くふくんだ芳香が虫を寄せ付けないので、この材が長持ちするのです。
これを抽出して芳香剤エッセンスも出回っています。
「クサギ」と「コクサギ」、花が似ていても科が違っているので、葉の匂いは大違いです。
どちらがよい匂いか、人によって差があります。
嗅覚は個人差がとても大きいのだそうで、みなさまにも一度試していただきたいものです
。目も耳も人より劣っている私ですが、嗅覚だけはかなり自慢できます。
動物のほうが優れているといわれる嗅覚です。 

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(↑クサギの実10月)

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(↑「イワタバコ」滝の周辺に群生 7月)

花の季節になると漂ってくるかすかなよい匂いは、どの花からやってきているのか、
しっかり見届けないでいつも山仕事を続けてしまっています。
山に居ることの気分のよさの一端には、こういったさまざまな「山の香り」があるからでしょうか。
動物の死骸が発する腐敗臭も、
木々の精気「フィトンチッド」が消してくれるのだとどこかで読んだ記憶があります。
「そよ風」もこういった香りを乗せてきてくれる、目には見えないけど素敵な存在なのです。

  1. 2014/08/28(木) 10:44:44|
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山からのたより その15 ~養沢集落の昔~

山からのたより その15 ~養沢集落の昔~

                           池谷キワ子

このシリーズもおかげさまで15回となりました。
読者のみなさまはもちろん、掲載くださる清水茶寮に感謝です。
森林・林業・山村のことは実態があまり知られていないようで、
このページでお知らせできてうれしく思っています。
今年は大雪の2月となり、根雪となって長く残りそうで心配です。
春の待たれるこの時期はお正月からとくに行事が続きます。
ここに記すのは、もういまでは存続していないことが多いのですが、
いくつかを追いかけてみます。
わたしもかなり長く生きてきたので、つい山の社会が華やかだった
何十年も前の話になってしまいます。
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(これは昨年の養沢風景。今年はこれ以上の積雪です)

●1月15日、『小正月』は「藪入り」とも言って林業の家では住み込みで
働いている人が実家に帰ります。
印半纏(しるしばんてん)という屋号入りの作業服が支給されます。
またこの時期は「繭玉飾り」といって、今年の御蚕様がたくさん糸をだしてくれるように、
繭になぞった上新粉の小餅を枝にさして飾ります。
合わせて今年の豊作祈願です。17日は「山の神の日」。
この日ばかりは山から遠ざかっていないと山の神の怒りにふれるのだそうです。
●1月20日『えびす講』。
台所に祀ってある「えびす様」にお明かりをあげ、尾頭付きの鯛そのほかを
お供えして家内安全と今年の豊作を祈念します。
えびす講は10月20日にもやり、この日がより一般的のようです。
わが家ではいまでも続けています。
●2月3,4日『節分』『立春』。豆まきの折、「福は内、鬼は外」のあと、
養沢では「鬼の目玉をぶっつぶせ!」というのです。
イワシのあたまを焼いてヒイラギに刺す、どこでもやりますね。
●2月の最初の午の日(今年は2月4日)が『初午』で、お稲荷様のお祭り。
5色の幡と油揚げや豆ご飯を奉納します。
養沢では数十年前まで「ちんちょうや」と言って、子供が囃し歌を歌いながら
家々からお菓子を頂戴して歩きました。

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(写真は初午の稲荷神社。その11でも紹介しました)

こうして挙げていくと書ききれないほど行事が目白押しだとわかります。
山仕事は冬から春にかけて多く、田んぼのない養沢でも畑は細々ながら在り、
農繁期には学校はお休みとなってみんなが家の手伝いです。
「学校林」という林地もあって、夏休み前ごろには、全員で鎌を手に山へはいり、
幼樹の周りを刈る「下刈り」をさせられました。
その時の経験があまりに暑くて過酷、「山作業員だけにはなりたくない」と
クラスの男の子たちは肝に銘じたようでした。
そのころは村の財政も乏しく、学校林を育てて、木材生産で得た金額を学校資金の
足しにしようと親たちは躍起だったのです。

養沢では秋祭りより春祭りで、臨時の舞台を青年団で建てて村芝居に興じたのは
戦後でした。わたしはちょうど子供から思春期のころ。
集落の青年たち、ちょんまげのかつらをかぶったおにいさんたちや島田に結った
年頃の娘さんが素人芝居に熱中します。私たち子供も舞踊やら寸劇に登場させられました。
股旅ものや「お染久松」道行きもあって、「あれは〇〇さんだ!!」と
やっと見破っては大笑いです。
この催しで、ひそかなロマンスも青年たちのあいだで育まれたりしました。
『獅子っ狂い』といわれる「獅子舞い」もお祭りのメイン行事で、
3匹の獅子と「ささらすり」の女性4人、集落特有の調子を奏でる笛吹き、
一行は各神社を奉納してまわりました。
お祭りは、豊作を願う神事とからませて娯楽の少ない山間の最大のお楽しみ。
桜の咲き誇る4月12日が決まりでした。

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(写真は昭和26年4月、お祭りの片づけを終えた記念撮影。筆者も写っています)

食べ物に関しては、暮れの「お餅搗きと蒟蒻作り」、
春からの「お茶摘み」、「梅干しつくり」「ラッキョウ漬け」、
「ぼうち」と呼ばれる「脱穀」、「干しさつまいも、切干大根」つくり、「白菜」は
冬の貴重野菜で、大事に新聞紙に包んで蔵へしまいます。私は5人姉妹で、
母の「夜鍋仕事」は娘たちの衣類つくりで、とくにお正月近くなると大車輪。
明け方まで奮闘して、元旦の朝、枕元に仕立て上がった晴れ着を並べてくれました。
靴下の穴が開いたのは電球をいれて糸かがりするのは子供もやらされましたが難しい仕事でした。
昔の養沢川は、いまよりずっと生き物が多かったように思います。
いまではすっかり消え去った「ぎばち」「かじか」「うなぎ」が沢山獲れました。
「鮎」「やまめ」は放流しているせいで今も獲れますが「はや」「めだか」も
影をひそめてしまいました。
父たちはだれも、釣りというより素潜りで魚を「さくり」にひっかけてたり、
「突き」でついたりして魚を取り、ときには「どう」という竹で編んだ筒状の仕掛けを
流れに設置します。入ったら出てこられない仕組みの筒です。
中でも「かじか」獲りは、そーっと石をどかして、水底に張り付いているのをすくう、
女の子でもできました。「かじか」は「あたまでっかち」で、かりかりに囲炉裏で焼くと
香ばしい味わいでした。

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(上の写真。いまでも昔からのやり方で、中央にある「芋洗い機」にいれて、
養沢川の流れでまわして泥を落とす家がある)

でも、いっときはほとんど消え去った「ホタル」が近頃復活してきたのはうれしいことです。
洗剤も改良されて、浄化槽も普及したおかげでしょうか。
養沢川は人工的なことはなにひとつしないのに「源氏ボタル」の自然発生が戻ったのを集落では
自慢にしています。
(今回は写真の収集がうまく行かず、獅子舞いの写真などお見せできないのが残念です)
  1. 2014/02/16(日) 21:22:32|
  2. 山からの便り
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山からのたより その14 秋~冬の巻 

「山村の怖いお話し!」                      池谷キワ子

お茶愛好家のみなさま、夏から冬へひとっ飛びでしたがいかがお過ごしですか。
このところ日本ばかりでなく、世界中に気象の変化で災害が多発しているのは
人災といえるのかもしれません。
今回は山里「養沢」の周辺のことです。暑い時期の方がふさわしかったでしょうか?
養沢の入り口に火葬場があり、下流の乙津(おつ)集落との間で、そのあたりだけ
人家が途絶えています。
その道端の「幽霊」が出る、人が道脇に立っている、子供を抱いた女性が川べりに消えた、
と囁かれるようになりました。集落へ一本だけの道ですから、夜遅く帰る時は車であっても
不安がつのります。火葬場は数年前にクローズされたのですが、そういう話の舞台装置とし
ては完璧なところです。

わたしが半世紀前に通った分教場も、トイレに「馬の幽霊」がでる、
右端の使われていないトイレは、入ると出られなくなる、といわれていました。
養沢分教場は養沢の中ほど、両脇の山がせまっていてほとんど日が当らず、
傾いた廊下やトイレへの渡り廊下は、裏山斜面からの湿気でじめじめしていました。
大正時代になって校舎ができる前は、馬の墓地だったそうです。
江戸から明治への時代はどこの家でも馬を飼っていて、生活は馬の力に頼っていたのです。
たくさんの馬が埋められてきました。家には「開かずの間」というのがよくあって、
放置された納戸や物置はお化けが棲むと言われたりしました。 

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(林地が95%ぐらいを占める雨後の養沢)

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(秋の夕方は早い。夕焼け雲も家路を急がせる)


養沢は今よりずっと田舎の面ざしをもっていました。
「キツネに化かされて」同じ道をぐるぐるまわった、
山からくる「ことろ(子供を取ろう)のおじさん」は夕闇まで遊んでいる子供を連れ去ってしまう、
ヘビを生き埋めにした従兄弟と私が重い風邪にかかったのはヘビのたたり、
お墓の上にヒトダマが飛んだのを私はこの目で見た、という具合でした。
夜が訪れると、遊んで過ごした裏山は動物の天下となり、フクロウの「ほうほう」という
声も響く魔窟になります。白黒の映画の世界のようでした。
ヒトダマはたしかに大きい玉になってすーっとお墓を横切ったのです。
夏の夜、校庭で映画が上映され、幕間にわたしは門柱に寄りかかって木立の間のお墓のうえに
一点の明かりがあるのを見ていました。急にその点が、ふわっと大きく玉になって燃えながら
飛んだのです。そのあと、また元の点になってしまった。友を呼んで言ったら
「あそこに小さな明かりがたしかに見える」とうなずきました。
土葬だったそのころ、死者から発された「リン」が一瞬集まって燃えるのだと聞かされました。

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(山への入り口。一歩入るととても暗い)

現代で物騒なのは、人間の仕業です。
今春も2軒の釣り場事務所に同時放火がありました。昔は動物で、モモンガやコウモリの
闇に浮かぶ姿は不気味ですし、キツネは頭脳明晰で人をペテンにかける、
キツネからもらったお札が良く見ると木の葉だったとかいわれます。
でも、新実南吉の「ごんきつね」「手袋を買いに」など人との交流のお話しは微笑ましいものです。
明治のころまでは「オオカミ」がいて、
山から人の後をついてきて恐ろしかったと家々には伝えられています。
でも、すぐ隣の武蔵御嶽山の守り神はオオカミです。

-武蔵御嶽神社の解説よりー

神社の「おいぬ様」=日本狼ですが、狼が守り神となった由来が日本書紀に現れますが、
御岳山では次のように伝えられています。
『日本武尊が東征の際、この御岳山から西北に進もうとされたとき、
深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いだ。尊は山蒜(やまびる=野蒜)で大鹿を退治したが、
そのとき山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷われてしまう。 
そこへ、忽然と白狼が現れ、西北へ尊の軍を導いた。
尊は白狼に、大口真神としてこの御岳山に留まり、すべての魔物を退治せよと仰せられた。』  

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↑(神社のお札。各家は戸口に貼って魔物を防ぐお守りとしていた。)
 
御嶽神社は養沢集落のすぐ隣の山頂に建ち、元旦まだ暗いうちに、
村人は山道を登って参詣に訪れ、日の出山に廻って初日の出を拝むのが習慣でした。
いまでは歩いて登る人はなく、ぐるぐると山裾の車道を1時間近くかけていき、
ケーブルに乗りついて参拝するだけです。
以前に書きましたが、養沢へは五日市から戸倉まで来て、
そこから横根峠をこえるのが主街道でした。
わたしの祖母が明治の40年に扇町屋といういまの狭山市からお嫁に来た時、
最初に出した嫁入り道具一式が横根峠で「追剥(おいはぎ)」に盗られてしまい、
再度整えたのだそうです。
街に育った「サクおばあちゃん」は「こんなところとは知らずに(嫁に)来たんだよ」と
私に言っておりました。

怖い話もあんまり恐ろしくなかったですね。
人の気配のない山のなかで、夕闇せまるころ聞かされたらすこしは真に迫るような気がします。

  1. 2013/12/09(月) 18:12:12|
  2. 山からの便り

山からのたより その13 夏の巻

山からのたより その13 夏の巻

山で採れる食材、山の楽しみ     池谷キワ子


暑さもピークが過ぎたのかまた来るのか、ともかく酷暑でした。
いかがお過ごしでしょうか。
山も日照りが続いた後に大雨だったりしています。降りすぎて山崩れ(養沢では「くよ」)が
起きなければ山の降雨は恵みです。

今回は山での食べ物編です。春、山に生える草々の新芽はほとんどが食べられるといえそうです。
もちろん、ハシリドコロ、ヒガンバナ、クサノオウ、タケニグサなど毒草もけっこうありますが。
山菜の王様、ワラビ、ゼンマイ、タラノメ、コゴミ、フキなどはこのごろは普通に出回っていて、
栽培されているようです。特に「山菜天ぷら」の材料は盛りだくさんで、数え上げればきりがありません。
やっぱりなんの人手も加えず森林や草原で野生したものほど香り豊かなのが春の新芽です。
そのかわりアクが強く、味が濃厚でやみつきになりますね。
養沢では自分たちが楽しむ量を山仕事のかえりに採集するだけ、根絶やしにしないのが原則です。

夏の盛りのこの時期、少ない山菜をいくつか紹介します。
わが家の裏の山の入り口に植えてある茗荷は7月末あっという間にこのように花が咲いてしまい、
品のいい花ですがこうなると食材としてはツーレイトとなります。品種が違うらしい「秋茗荷」は
彼岸ごろ、色がピンクでより美しい。山への道にはミツバが自生しているので、ボランティアが作る
「みそ汁」の青味に最適、摘みながら登って行きます。
すこし登った林地に先祖が植えた孟宗竹の林があり、5月のタケノコはひざ丈ほどに成長してもまだ
柔らかく食せるので好評です。

花が咲かないうちがいい

花が咲かないうちがいい

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昨年の多作だったタケノコの写真です。
収穫後はみんなで平等にわけます。今年は裏作で10%にも満たない少ないものでした。


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               青ユズ                    自然に生えているミツバ

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          8月収穫ブルーベリー               ワサビ田にはいつも沢に水を流す

青ユズは8月はまだ小さくて、完熟する11月ごろのユズとは芳香も強くおそうめんにぴったりです。
蒟蒻は収穫に数年かかりますが、これは「そらあけ畑」で栽培しています。
年末に、そらあけ会のYさんがレシピとともにお刺身蒟蒻を伝授です。
ブルーベリーは7月末からがシーズン。
これは畑に苗を植えて20年余りなのにさっぱり成長してくれないのです。
世話がすくないので怒っているようです。でも、絶対病虫害にかからない、タフな植物です。
ワサビ畑ははるばる千葉からもう15年も通っている公認会計士嬢が、森林ボランティアのかたわら
独自でワサビ田を造り上げてきています。このことは、便りの“その7”に書きました。
ワサビは「まずま」「だるま」という種類が栽培種だと奥多摩の新島先生に聞きました。
井戸入沢に点々と自生しているワサビは、50年以上前近所のおじさんがここで育てたことがあった名残です。

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ついで昼食のお話しです。「そらあけの会」お弁当タイムはうれしいいひととき。
「かしき」と呼ばれる2名の食当が、一年中、鍋いっぱい「具だくさんみそ汁」を作ってくれます。
自由持ち寄りの具は、生まれて初めてというようなアイデア食品も入って闇鍋ふうです。
12時10分前に笛の合図で作業の手を止め、順次「お茶場」と呼ぶ荷物を置いた、たき火の炉のまわりに
もどってきます。昼食はかなりまとまった量のお惣菜を持ってくる人もあって、それをバイキング形式に
ぐるぐる回すのです。
「怪我と弁当と足は自分持ち」といわれるボランティア、すこしでも楽しんでいただけたらと、
わたしも出来る範囲でオカズを用意していきます。このごろは20人になることもあり、この写真より
もっと大量に持っていきます。夏は野菜マリネや酢の物を冷やしていくと好評です。
山での楽しみはいろいろあります。
  1. 2013/08/27(火) 09:58:42|
  2. 山からの便り

山からのたより  その12 ヨーロッパの森林

山からのたより  その12 ヨーロッパの森林
                         池谷キワ子

2013年4月末にヘルシンキ、バルト三国、ポーランドにいってきました。
毎年一回、夫の友人たちと中近東、東欧あたりに行っています。
林業とは関係ない旅です。

そこで今回の「山からのたより」はすこし趣きを変えて世界の森林を話題にします。
といっても、そんな旅の中で見たこと、
いままでに林業のなかまから聞きかじった話や読んだ本がネタです。
もうとっくにご存じの内容かとも思いますし、独断的に書いています。

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※北極に近いロシアの上空を飛ぶ

フィンランドは世界一の森林国で国土の74%を森が占め、
大地は平坦で湖沼が多いそうです。
でも、この国の滞在は2日、ヘルシンキだけでしたから森林の様子は垣間見ることも
できませんでした。北欧材としてノルウエーなどから日本にも多く輸入されています。
バルト三国もポーランドもまったく平な地面が続いていました。
エストニアではもっとも高い山が300メートルと聞きびっくりでした。
バルト三国では、たくさんの人工林の中をバスで通過し、
シラカバ、トウヒ、アカマツが主で日本より密植(日本では通常ヘクタール当たり3千本)でした。
もちろん天然林もあるのですが背の低い灌木でした。
人工林もまだほとんどが成長過程で、日本の成長にあわせて眺めると、
せいぜい30年くらいの樹齢にみえました。人工林はそれ以前にはあまりなかったらしい、
あったとすればどこかに残っているはずですから。
風などであれたところも枯れ木もそのままで育林の手入れは少なく、
あまり太くなくても皆伐(いっせいに伐る)して、薪や建材につかっているようです。
でも、きちんと伐採跡地は再造林(苗を植える)してありました。

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※シラカバとトウヒの人工林 バルト三国リトアニア 2013年

安田喜憲氏の著書『日本よ、森の環境国家たれ』によると、
ヨーロッパは「畑作牧畜民」で「家畜の民」。
日本は東南アジアとともに「稲作漁労民」で「森の民」、と異なる道を歩んできた、
前者は天然木を伐り払ってしまい、ヒツジやヤギを育てて小麦を作ってきた、
後者の日本など稲作国家は、田んぼに流れ来る水を確保するために、
森林を大事に守り循環させてきたといいます。ドイツもいまでは森林国ですが、
それは森を畑や牧草地にしすぎたために、これではまずいと人工林造りにまい進した
結果からでした。
いま、森林国といえるのは北欧、ドイツのほかにオーストリアがあり、
近年の林野庁は、急峻な地形が似ているここの森林政策を参考にしています。
安田氏のこの本によると、ギリシャのアテネ・パルテノン神殿の周辺も、
アテネ北部のご神託で有名なデルフィ遺跡の一帯も、鬱蒼とした森林にかこまれていた
そうです。ギリシャのように雨に少ない地中海沿岸で森林が伐られ再造林をしないでいると、
雨のたびに土は流れ落ち、岩山となって、二度と樹木の生い茂る山には戻れないのです。
数年前ギリシャの旅をしたおりは、そんな森林があったとは想像もできませんでした。

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※ギリシャ・デルフィ遺跡2008年 巫女の占いが著名で、
ご神託によりたくさんの国の運命が決定されたりした

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※アテネ・パルテノン神殿の一部。本殿は修復中 2008年 
デルフィもパルテノンも深い森に覆われていたという

キリスト教が広まる以前は、この国は多神教。
山の神様は「メドゥーサ」と言う女神で、森の中から人々を見守っていた。
メドゥーサがヘビの髪の毛を持つことと多神教時代の抹消もあって、
見るものを石に変えると忌み嫌われてしまったのでした。
キリスト教推進のローマ皇帝ユスチニアヌスがこの像をイスタンブールの貯水池に
投げ込んでしまったのは有名な話です。

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※水槽から拾いだされたメドゥーサ(「日本よ、森の環境国家たれ」より)

レバノンスギは、広大なスケールで天をつく太い樹林が、
地中海東岸の中近東からトルコあたりまで存在したのに、
これをほとんどすべてを伐りつくしてしまいました。
メソポタミアをはじめ4大文明地も森がなくなって文明が滅びました。

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※トルコ・ヒッタイト古王国のハットゥシャシュ遺跡 
ここもレバノンスギの鬱蒼とした森林地帯だったらしい 2008年

この本を読むと、わたしたちの祖先は賢い選択をしたと知ります。
継続して森林を育成していく手法を確立してきたし、
治山治水という言葉のように、
日本の過去の為政者は、水を治めることが大きな役目でした。
小麦が主食のヨーロッパは、将来、人口増加で食物不足の時代を
むかえたとき稲作と違って反当たりの収穫量が少ないために食糧疲弊するのではとも書かれています。
外国の旅をすると、山山が厚い森林帯で覆いつくされている日本は、
手入れ不足が生じてはいるけれど、雨も多くて自然の豊かさに恵まれている国なの
だと知らされることです。


  1. 2013/05/29(水) 09:23:26|
  2. 山からの便り
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山からのたより その11 ~養沢の林業このごろ~

山からのたより その11 ~養沢の林業このごろ~
                         池谷キワ子

今年の春は歩調がゆっくりです。山は春の到来が遅いとおもわれるでしょうが、
植物によっては感度が高く、もう芽吹いて枝先を緑に膨らましているのがニワトコなどです。
今回のおたよりは冬の養沢と林業アラカルトです。

「冬は山仕事、お暇でしょう?」といわれます。が、どうして一番忙しいときです。
灌木や下草は枯れ木状態で作業はしやすく、木々は水を吸い揚げていない時期、
枝打ちや間伐の適時なのです。晩秋に「ボランティアそらあけの会」では
40年以上も藪状態だった放置畑を刈り払いしました。

1月からは、昨シーズン以来高い枝打ちに挑戦している井戸入り沢での作業になりました。
このごろは15人ほどが月2回のわりで、元気で楽しくやっています。
枝打ちをしないメンバーは大刈り(林内の灌木伐り)です。

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写真:篠だけ藪を伐り払ったそらあけの会

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写真:枝打ちはラダーとステップで6メートルの高さまで。
ほかに木登り機も使っています。


ボランティアとは別に、林業のプロに間伐などの山作業をお願いしています。
東京都認定林業事業体の築地林業です。
若者2人組の彼らは、1月初めから作業路づくりに取り組みました。
私の家の林地は小区画であちこちに飛んでいるので、近代林業の命綱である作業路を、
いままでほとんど開設してきませんでした。
この作業路とよぶ小規模林道は、林業を営む上での「魔法の杖」ともいわれてきましたが、
いまではこれなしでは林業が成り立たない存在になりました。
田邉由喜男氏という名だたる道づくりの指導者が来てくれて、一カ月で1,7キロが
完成してしまったのです。その速さにはほんとにびっくりでした。
このごろでは、この作業路造りに行政から補助金もいただけて、森林所有者の負担が
軽く済むようになってきたのはありがたいことです。
この路を使って材木の出荷が容易になる日を待ち遠しく思っているところです。

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写真:見学者に作業路造りのコツを解説する田邉氏

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写真:ヘアーピンカーブなので一般車は通行不能です

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写真:山に囲まれた養沢集落。12月

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写真:岩山迫る家々。2月


養沢は山に挟まれて日照時間が少なく、寒さひとしおの地です。
立春後さいしょの午の日、今年は2月9日がお稲荷さまの祭日「初馬」(はつうま)でした。
祠に旗を奉納し、御幣やで飾り、油あげや小豆ご飯を供えます。

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「山眠る」は冬の季語です。養沢住民の愛しの山「大岳山」が枝打ちの井戸入り
山林からも望まれます。「分け入っても分け入っても青い山」(種田山頭火)
  1. 2013/02/28(木) 11:40:48|
  2. 山からの便り

山からのたより その10 ~養沢の山に棲むケモノたち~

山からのたより その10 ~養沢の山に棲むケモノたち~
        
                                      池谷キワ子

今年(2012年)の秋は足早です。そのせいか木々は色合いよく衣を変えました。
日ごとに紅葉ラインが麓に降りてきています。
そして、あの暑かったことが思いだせないほど、木枯らしも吹き出し、
早朝は、屋根が霜でまっ白になるこのごろです。

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                   (養沢集落の入り口 2012/11/13) 

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          (五日市 広徳寺の銀杏2012/11/13)
                

大昔、この辺の山は動物たちの独壇場だったのでしょう。
次第に人が住みだし罠や鉄砲で捕獲して食糧や毛皮に利用するようになると、
ほとんどが安全な山奥に姿をひそめていきました。
クマ、シカ、カモシカ、サル、野ウサギ、テン、イノシシ、狐、タヌキ、アナグマ、リスなどです。
ところが昨今、林業が衰退して林内に人が入らなくなると、彼らはまたぞろぞろ里におりてきているのです。
人口も減り、子供の声も聞かれない集落に、動物は安心して近づきはじめました。
とくにイノシシは畑の作物を我が物顔に食い散らかし、丹精込めた畑を荒らします。
クマは今年のように木の実が不作な年は、人家近くにやってきて、
人に危害をくわえたなどニュースになっていますね。 

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    ( 「クマ棚」といってクマの休み場所。          (バス停にクマ注意の立て札が)
  まんなかの枯れ枝がためてあるところ) 


養沢のなかほど、神谷バス停付近では、すぐ道脇の川向う、写真の棚にツキノワグマが座って、
「かわいい顔でこちらをみていた。つい手を振ってしまった」と目撃者の談です。
数日まえ(2012/11/20ごろ)には親子のツキノワグマが
養沢の入り口付近の街道を歩いていたとか。 
東京・奥多摩町の多摩川左岸ではかなり以前からシカが大量に出没し、植えたばかりのスギ、ヒノキを
全滅させるので、林業者は途方に暮れています。
生息エリアもひろがり、近ごろは養沢にも来ていて、 わたしの山林の太い木が、皮を剥ぎとられたりしました。
行政も調査捕獲に精出しているのですが、 なかなか減少のニュースは聞こえてきません。


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(畑と山の境にはイノシシを防ぐ電気柵が張られている)
わが家のすぐ裏山に140年生のスギ・ヒノキの混交林がすこしあります。
その根元は、さまざまな雑木が2メートルばかりの
丈で生い茂っています。 そこにはトンネル状に「けもの道」ができているのです。 タヌキ、キツネ、アナグマ、ハクビシンといった人里近くに住む小型の獣が行き交う道です。
先日、沢周辺をみんなで大刈り(林内清掃)をしていて、若いキツネの頭蓋骨を拾いました。
これらほとんどの生き物は日暮れてからが活動時間帯で、わたしたちはなかなか出逢えないのです。 このごろやたらに増えてきたイノシシはとても臆病で、人前にはほとんど姿を見せません。


 
ここの25メートル以上の高さでそびえる木々も、何本かは枯れる寸前となっていて、
そこにムササビが団地を造成しています。
ムササビはまったくの夜行性ですから、私たちは「ばんどり」(晩鳥)とも呼んでいて、
日暮れてから辛抱強くウオッチしないと 見かけられません。
が、昼間に私が幹をたたいたら、驚いて飛び出し飛行をみせてくれました。
哺乳類なのに、コウモリは空を飛びますし、
ムササビは前後足の間にあるケープ状の飛膜を広げて滑空するのです。 

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(まんなかの木に3つムササビ団地)
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(写真 篠木真『ムササビ』)
 









 

動物と人間は長い年月、互いにせめぎ合いながら山の恵みを貰って生きてきました。
彼らは種の保存のためにも必死で生き抜きます。
たくさんの種類の生き物が住んでいる山は理想的、生物多様性です。
でも頭数が増えすぎたりすると、山里で人が住むのは容易ではなくなります。
動物保護もバランス感覚が必要。集落が消えてしまうと、さらに森林の保全は難しくなってしまいます。


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       (秋川から望む馬頭刈山<ばづかりさん>と大岳山<おおだけさん>(右)。
       養沢集落の母なる山々です。 2012/10/19)

  1. 2012/11/27(火) 11:45:12|
  2. 山からの便り
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山からのたより  その9 ~水のゆくえ~


山からのたより  その9 ~水のゆくえ~

                                                                      池谷キワ子

今年も暑さはまだ続いています。
そこで今回は「涼」をお届けしたく、水の流れについて書きます。
水という存在はなんともいえず魅力的なものですね。
あらゆる生命は水なしでは生きられないし、人体の約60%は水なのだそうです。
ヘレンケラーは、水に触れて、掌に書かれた「ウオーター」が最初に知ったことばだそうですが、
たしかに水という液体の感触は独特なものです。

わたしがいつも足繁く通っている裏山の井戸入り沢は、そんなに奥が深くないのに、
渇水の時期でもかなりの水量で、澄んだ水を流れ出し続けます。集落に水道が引ける前までは、
長い間、貴重な飲料水の役目をはたしてきました。いまではこの沢は2軒の家が、
池に引いて鯉を飼っています。水道水だと魚が住めない、不思議なことです。

グラフィックス1
山の地面は団粒構造の生きている土。そこに留まり地下水となる水

グラフィックス2 
岩間から湧き出る清水が、井戸入り沢となっていく。

グラフィックス3
井戸入り沢
  
森林に降った雨が、地下に吸い込まれて浸透した水が地下水となり、
浄化されミネラルも含まれて、おいしい清水となって湧き出てくる、この天然の仕組みはすばらしい自然装置です。

グラフィックス4

沢沿いの石垣にびっしり咲くユキノシタ  6月初旬


養沢川は十里木で檜原村から来る秋川に合流するまで、御岳山、大岳山に端を発し、
せいぜいその長さは10キロ程度です。
この川は大雨の時でも、かなり透明な水を保っていて、山崩れさえ発生しなければ濁らないのがみんなの自慢です。
滝も随所にあり、夏は緑陰のなかで涼を求める人たちで賑わっています。

グラフィックス5
井戸入り沢の注ぐあたりの養沢川

グラフィックス6

御嶽神社からすこし下ったところにある「七代の滝」。
マイナスイオンを満喫できる。
養沢川源流である。撮影 西川みつ子  

グラフィックス7

滝の側面にはイワタバコ  7月


「ようざわ」という名は、「いわお沢」がなまったものらしいと、つい最近知りました。
たしかに川の中には大きな岩石がごろごろしています。
そして、水中の石に緑の「苔」がついていて、それを食する「カワニナ」貝が増え、
それらを餌にする「ゲンジホタル」が 7月初頭には養沢を飛び交います。
森林の腐葉土をくぐり、ミネラルを含んだ水は、苔に養分を与え、アユやヤマメを育てるのです。

グラフィックス9
ホタルの飛び交う名所、徳雲院そばのネムノキと養沢川。


手入れの行き届いた森林は「緑のダム」です。
養沢川の水は、秋川となって五日市を東へ向かって流れ、拝島付近で青梅の方から来る多摩川の本流に注ぎ込み、
東南方面に調布、二子、丸子、六郷と経て東京湾に流れ込んでいます。
この流れに沿って材木が、最初は一本ずつの「管流し」の方法で養沢を出発、五日市周辺で「筏」に組まれ、
江戸まで到着。大正の末期ごろまでの輸送手段でした。
さっそうと筏を操る筏乗りは、山仕事仲間の華だったようです。

グラフィックス10
五日市を流れる秋川は今年も水浴び客で満員



自作の不出来な和歌を披露します。
枝打ちや間伐をして、林床をみどりに保つことが、健康な森林となって、多摩川の水量の平準化をも担っているのです。


「多摩川を 渡れば思う この一滴 われの枝打つ 山よりも出ず」



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調布市を流れる多摩川、人々の暮らしのオアシスになっている。  撮影 大谷三男
  1. 2012/08/24(金) 10:41:58|
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山からの便り その8 ~山の道~ 

    山からのたより その8 ~山の道~           
   
                                                                                               池谷キワ子

いっきに春が到来しました。でも、例年より10日近く遅かったようです。
花粉症のみなさま、今春はいかがでしたでしょうか。
わたしたち林業をいとなむ者にとっては肩身が狭い時期でもあります。
養沢の里は4月中旬のいま、山桜、ミツバツツジの紫、イタヤカエデの黄緑、
ヤマブキや菜の花の黄色、コブシの白、と色とりどりです。

yama001.jpg 
 今回は山の道をご紹介します。
 山の中で歩き道がかなたへと登って続いているのは、
 なんとなく詩情を感じ、教科書にあった
 「道程」(高村光太郎)という詩を思い出します。
 折れ曲がっていって、木立にさえぎられて、
 さきがどんなふうに続いているのか皆目わからない
 からかもしれません。








(下写真は古くからの踏み跡道)

yama002.jpg yama003.jpg

育てている木を手入れする、風害などが起きていないか見回る、それにはまず歩きやすい道がなければ始まりません。
登山道はともかく、林業が衰退して、以前はしっかり出来ていた道も、草が生い茂って、
どこら辺が道だったかどうしてもわからない、そんなところがいっぱいです。
「ああ、この辺が道だったらしい」と見出した時は、昔の人々がたどってきた跡なんだと思うとうれしくなります。

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山の歩き道つくりは、つづら折れにし、骨を折らずに登っていけるようなルートを設営します。
手入れの荷物は、チェンソーや燃料、鉈や腰のこぎり、お弁当、もろもろの道具で、けっこうな量です。
これを背負って楽に登れるように整備します。これは一時的な道のこともあり、面白がって好きなように造ったりです。
そうはいっても間伐とその選木、大刈り、といった手入れをしているときは、
林内を道などおかまいなしに歩き回らなければなりませんけど。

3月、「そらあけの会」は、「井戸入り沢」から「横根峠」に抜ける歩道を開設しました。
あらかじめ下見し、印をつけた木々に沿って、道づくり班5名の男性が、「トンガ」(唐鍬)を振りおろし、
がりがりと斜面を切とっての造成です。2日かからずに3百メートルの新道が出来上がりました。
その日の帰路は、みんなで通り初めをして、横根古道ルートで下山しました。
この横根古道は、以前は養沢へのメイン街道で、馬や人力車が行き交ったところであり、
馬頭観音がいくつも建立されています。

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(馬頭観音   左1803年・右1855年建立 馬の安全祈願)

ほんとうは今の時代、車両で頂上までいける「作業路」が断じて必要です。
車で通れる道を造って、機械を使っての出材は、コスト削減には欠かせません。
でも、このあたりは急傾斜だから、林地を荒らす?小規模所有だから他人の林地を通る?など作業路造りは
とても難しいのです。
(写真・歩道作り中と完成した道・今年3月)

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視界が刻々と変わる山道歩きは、足元にいまは、スミレ、ヤマルリソウ、
キケマン、ムラサキケマン、ニリンソウ、ネコノメソウと賑やか。
遠い山々が春霞でおぼろげに折り重なって望まれ、歩く気分は最高です。
ふかふかした土の地面は、足裏に心地よく、人が行き交うにつれ山道は自然に
しっかり整っていきます。
わたしは山のマップに、この増やした道を書き足して、大勢のかたがたに歩いていただき、
森の表情を楽しんでほしいとおもっています。人工林も手入れをすれば豊かな山に変貌し、
年輪の詰んだ力強い材木が取れるようになります。

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(キケマンとワサビの花。写真下は横根古道。さびれてしまったが道幅は広い)

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  1. 2012/04/26(木) 22:52:02|
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山からのたより その7 ~冬の林内と小さな来訪者たち~

山からのたより  その7
~冬の林内と小さな来訪者たち~
                         池谷キワ子

今年の寒さは格別ですね。
被災地のみなさまはいかばかりかとおもわれます。
養沢の山でも、寒い凍った林内、落葉樹は枯れ木のように葉を落とし、山の魅力が半減しています。
でも、この時期こその輝きもあります。
スギの常緑の衣は、にぶいからし色となり、ヒノキの緑も深い色合いとなります。
シラカシ、アラカシ、ヒサカキ、ツバキ、オチャなど照葉樹という常緑の木々は、葉面がしぶい緑色
に光って、寒さをしのいでいます。
赤銅色の杉木立
赤銅色の杉木立

冬のくもり空にも光るお茶の葉
冬のくもり空にも光るお茶の葉

1月にはいると、わずかに枝にしがみついていた秋の彩りの葉も吹き飛んで、ナンテンなどの実が目
立ってきます。今年は実付きがよく、ヒヨドリのような群なす野鳥が減ったのか、赤い実が自己主張
を強めています。
まだトリに啄ばまれてないナンテン
まだトリに啄ばまれてない“ナンテン”

ツルリンドウとフユイチゴ
“ツルリンドウ”と“フユイチゴ”

小さく可憐な「ヤブコウジ」.
小さく可憐な“ヤブコウジ”

歩き道の脇の「ミヤマシキミ」
歩き道の脇の“ミヤマシキミ”

このあたりは昔から人が住んで、山で育つ食用植物はなんでも植えてきました。
オチャ、ミョウガ、ウド、孟宗竹、ワサビ、ミツバ、セリなどです。
ゼンマイ、ワラビ、コゴミは、自然に生えているもので、そのエリアを枯渇しないよう上手に利用し
てきました。ヤマイモはジネンジョといって格別の味わいです。
細長く地面の奥まで根付いていますから、特別な器具を使って掘るようです。

山案内のコースにワサビ田があります。
沢沿いに棚田を13枚ほど作っている森林ボランティアのN嬢は、もう15年間も千葉の市川から休日
にやってきて世話し続けています。ワサビは豊かな森林から湧き出る養分を含んだ水が、常時流れつづ
けるように、小石づくりで田を設置します。苗を植えて3年ほど経て採集時期を迎えた何枚かの田から、
年末に「そらあけの会」にワサビを採らせてくれるのです。おかげでメンバーは、地酒「喜正」を舟絞
りした絶品酒粕を入手して、お正月用「ワサビ漬け」を作るのが恒例となりました。
ワサビの出来もよい今年、わが家でも辛みのきいたワサビ漬けがたくさん出来ました。
わさび田
ワサビ田

1月19日には中野区立平和の森小学校5年生80名が、「東京・森の学校」(注1)の見学コース
になっている私の家の森林と近くの製材所にやってきました。
5年生の三学期には、社会科で林業を学ぶカリキュラムとなっていますが、山まで見に来てくれる学校
はほとんどありません。わたしたち「東京・森の学校」では、ボランティア「そらあけの会」や田中製材所長
さんの助力を得て、この案内役を引きうけました。
24年生ヒノキが、彼の手によって、受け口と追い口を入られて、ツルを残した方法でメリメリとゆっくり
倒れると、こどもたちから大きな拍手が起こりました。そして「山はきもちがいい!」と目を輝かせて帰っ
ていきました。製材所でも製材機の「おびのこ」でみるまに丸太が四角く切られていくと、ワアッと歓声が
あがりました。
なんといってもじかに森林に触れることが、森林のほんとの理解につながるのだとおもうのです。

これからヒノキが下方に倒れます
これからヒノキが下方に倒れます


製材機で丸太が四角になる
製材機で丸太が四角になる

5年生といえば、かなり視野が広がり、気持ちも安定した「子供時代の大人の時期」です。
森林を取り巻く多くの問題も知れば、体験ととともに一生忘れないことでしょう。山での歩みもしっかり
して私も追いつけないほどでした。感想や質問が届くのが待たれることです。

(注1) 4年前の発足。都市の人に、森林に親しみ、林業を知り、もっと東京の木を使ってもらおう
と、山を案内したり町で講座を開いたりしているグループ。建築家、森林インストラクター、製材業者、
林業家がメンバーとなっている。
  1. 2012/01/24(火) 18:54:00|
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山からの便り その6 木が育ちあがるまで

山からのたより その6                池谷キワ子

山からの便り 秋の号をお届します。

夏と冬の日々は同じような日々が続きますが、秋と春の日々はすべての気象状態が揺れ動き、気温が
一日として同じところにとどまっていません。行きつ戻りつ気温は上下し、来るべき厳しい季節の
「ならし」をしているようです。山は天気の変わり具合がはげしく雨も多いです。
そして時折、桃源郷にいるかのような抜群の一日が訪れます。
そんな日は、神様が天上からおりてきて戯れているとき。あらゆる自然のものが、嬉しくてたまらず
笑っているかのごとくで、「秋日和」満喫となります。
昨年の秋風景
秋の風景

今までの便りでは、「材木の値段が下落した」と繰り返し書いてしまっていて、読み苦しく、たいへん
失礼しました。そこで今回は木が育ちあがるまでの仕事をご紹介しましょう。

×    ×    ×    ×    ×    ×

★木を植えて、伐採して利用し、またそこへ再造林する、これを繰り返していくのが「林業」です。
それではじめて、木材が持続可能な資源となります。
伐採跡地がまだ寒ささかりのころ、「地拵え」(じごしらえ)という林地の整地作業をします。
苗木を植えやすいように、散乱した枝などの残材をひとところにまとめて地ならし、新植の用意です。

★「遠山に雪」がまだ残っているような3月から4月初めにかけて、「植え付け」。
苗木やさんの畑で実から育てた苗を、根を乾かさないよう菰に包んで、届いたその日に植えます。
「尺五苗」といって45センチ丈の、このあたりではスギかヒノキをヘクタール3000本植えです。

★植えてからほぼ7年間、夏の盛りに苗木の周りを刈る「下刈り」です。
雑草に負けないで日差しを浴びて育てるには欠かせない仕事です。
とくに2,3年目の苗が幼い時はシーズンに2度刈ります。この仕事は一番厳しいものです。

★すくすくと育って8年目には隣の木と枝が重なるようになって、下草が生えなくなると、つぎは「蔓切り」。
侵入した雑木や枯死した木「除伐」もします。
同時ごろ「根払い」という枝打ちで、胸高までの枝を落とす仕事もあります。

★根払いの終わった数年後、私の家では13年生ぐらいで第一回目の本格的「枝打ち」です。
本来は少しずつやるのが木に負担をかけないのですが、今時はいっぺんに4メートルほどまで枝を払い
落してしまいます。
山のプロ・ゆうさんの枝打ち
山のプロ・ゆうさんの枝打ち

★あとは折を見て20年生ごろから何回かの「間伐」です。
一度の間伐で、本数で2割から3割を伐り、このごろでは伐った木を横に積んで、林内に放置しています。
出してきて市場で売っても出材経費の方がはるかに上回ってしまうためです。
良材生産林はさらに6メートル「枝打ち」します。
ヘクタール3000本を植えた林が、除伐され、さらに間伐(まびき)数回をへて、60年後の皆伐時期には
およそ「600本」となります。
プロTさん間伐
チェンソーを使って間伐

沢山の手、長い時間をかけないと材木はできあがりません。
植林時も水をやらない、肥料はいっさい与えない、害虫駆除もできない、と自然にお任せ、でも手入れ
だけは絶対に必要です。使いやすい材木にならないのです。自然とどっぷり「四つに組む」仕事です。
このところ頻発の災害にはやられっぱなしです。
1988年の雪害
1988年の雪害

  1. 2011/12/02(金) 11:24:57|
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